「冬日によせて」サンプル小説 ナイフ

 殴られた頬がひりひりする、とたぶんお互いに思っていた。連れ立って部屋に戻るまで、どちらも一言も喋らなかった。靴の下では表面だけ凍った枯れ葉が音を立て、踏みしめると足もとから染みるように冷えた。吐く息は白く、と言ってもネズミは息を切らせるようなことがないので、紫苑の呼気だけが目立って白く、朝日のまだ差し込まないまばらな雑木林の中にそれは繰り返し揺蕩たって消えた。先を行くネズミが、時おりふり返って紫苑がついて来るのを確認する、その動作は母親に甘えながら先立って歩く子どものようだと、そのたびに思った。
 それで紫苑は、ネズミの孤独を思った。お別れのキス、と言い当てられたことより、それを拒否して紫苑を追ってきた、そのネズミの心を思った。紫苑との別れなど、眉ひとつ動かさずに受け入れられるものだと思っていた。紫苑がネズミを軽んじたとしたら、それは嘘をついたことではなくて、たとえ嘘がばれたとしてもネズミは自分を追って来ない、と高をくくっていたことだ。
 他人を大切になんか思うな、自分だけを信じろ、そう何度も言ったくせに、ぼくひとり見捨てられやしない。今まで見てきた中で、いちばんネズミらしくない行動だったと思った。それとも、本当はいつだって他人を求めて、でも生きるためにそれを拒絶してきただけだというのだろうか。
 紫苑は冷静だった。眠らずに沙布のことを思い、ネズミのことを思い、ひとりで行くと決めた、その過程で思考は底なしに澄んで、冷静だった。紫苑はネズミを置き去りにすることに、なんの苦も感じなかったのだと、思い至った。離れたくない、とも、もう会えなくなることが怖い、とも、思わなかった。それだから、あれはただのお別れのキスだった。苦もなく、いともかんたんに、さよならを言えた。

   *

 部屋に戻ってから紫苑は、椅子に腰かけて手の指を組み合わせ、うつむいたままだ。ネズミはベッドに寝転がっていたがもう一度眠るでもなく、そういえば腹が減ったなとひとりごちて、ゆるりと起き上がった。火を入れたストーブに鍋をのせる。いつも底のほうに少しだけスープを残してある鍋に、乱暴に水を足し塩を足した。蓋をせずに、腕組みしてそれが沸騰するのを眺めた。テーブルの上の果物かごには、結局手をつけることのなかったパンと干し肉が入っている。
 いつもより時刻が少し早いだけの、いつも通りの朝だった。
 ほっとしている自分が情けない、とネズミは思った。鍋は細切れにされた野菜の栄養分を吸って濁っている。底のほうからぷつぷつと気泡の湧き上がる様子が、なるほど魔女の大釜に似ている。気泡は次から次へと盛り上がっては弾け、水面が湯気に覆われた。浅く眠ってしまっただけにかえって疲れを感じる。スープの表面が吐瀉物のようにぬめってくる気がして、ほんのひととき嘔吐いた。紫苑は相変わらずうつむいたまま、目を閉じている。天然のお坊ちゃんにもご機嫌斜めな朝くらいあるか、と軽く思い、ともかくふたり分、碗にスープをよそった。
「紫苑」
 と呼んでみる。紫苑は返事をせず、すうっと顔をあげた。
 光の加減か、ずいぶん暗い目をしていると思った。なにせ矯正施設に乗り込もうとした矢先に出鼻をくじかれたのだ。友人のことが気にかかって仕方ないのかもしれない。それも当然だと、あえて明るい声を出した。
「焦るなって。腹が減ってはなんとやらだろ、食えば」
 本来の用途では一向に使われない果物かごからパンを出してちぎり、パンより下にもぐっている木のスプーンをとり出した。干し肉は夕食にとっておくつもりで手をつけない。もとは背の高い書架のための踏み台だったのだろう組み木を椅子代わりに腰かけ、ネズミは紫苑が動くのを待った。たっぷり三秒数えるあいだ、紫苑は驚いたように目の前のスープ碗を見つめていた。それから左右に頭をふった。
「すまない、考えごとを」
「あーはいはい、分かったからさっさと食え」
 紫苑はまだ半分くらい思索に沈んでいるようにも見えた。殴った拍子に口の中が切れたのか、何度か顔をしかめながらも、紫苑はスープを飲み干した。ほっと息をついている。無防備で、天然で、いつもの紫苑だった。けれど紫苑はスプーンを置くと、逡巡するように自分のその白い前髪に触れ、ネズミに視線を合わせた。
「きみはなぜ、ぼくを追ってきたんだ」
 ささやくように、それでいて思いつめたように強く、言った。
「なぜって、あんたが心配だったからって、言わなかったっけ。ひとりでのこのこ行かれちゃ困るんだよ」
「どうして困る。ぼくひとり死んだって関係ないんだって、いつもなら言うだろ」
 ネズミは心底驚いて、スプーンを置いた。驚いたことを気取られないようにうまく微笑むのは忘れなかったけれど、一瞬ことばにつまった。
「おかしいよ、そりゃきみはいつだって、ぼくを助けてくれたけど」
「おかしくなんかないさ。あんたは命の恩人だ。みすみす死なせたくなかった、何度も言ってやったとおりだ」
 紫苑はなにを言おうというのだろう。
 なんとなく痛いところを突かれそうで分が悪い。けれど紫苑が眼球に静かな光沢を湛えて言い募るので、うっかりその先を聞いてみたくもなる。
「ぼくはきみにさよならを言った」
「とっておきのキスとともに、ね」
「さよならを言えたんだ、分かる?」
「幼稚園児でも言えるだろ、挨拶なんだから」
 紫苑は視線を落とした。傷ついたようにも見えたし、考え込んでいるようにも見えた。はじめて見る、と認めざるを得ない表情だった。時間がもったいなくて苛々したが、そのついでのように、どうしてだか、悲しくなった。
「きみはぼくにさよならを言えなかった、だめじゃないか、ネズミ」
 手負いの獣にとどめをさすような慎重さで、うつむいたまま紫苑は言った。
 ネズミは、あるまじきことだと思いながら絶句して、その場で手が出そうになるのをこらえた。わけのわからない悲しさに怒りが勝って、こぶしが震えた。腫れつつある紫苑の頬を見つめる。
「おれに説教しようってのか。勘違いするなよこの野郎」
 立ち上がってテーブルをまわり、紫苑の襟首を掴んだ。
「それ以上言ったら、もう一発殴る。いや、一発じゃ足りないか」
 紫苑は怯まずに立ち上がった。身長はネズミのほうが高いけれど、目線はそう変わらなかった。テーブルの上でパンくずをかじっていた小ネズミが、慌てたように走って消えた。
「何度でも殴ればいいさ。ぼくを捨てられないきみが、目的を果たせるのか」
「うるさい、喧嘩の仕方も知らない弱虫のくせに」
「弱虫はきみのほうだろ」
「おまえ、自分が何言ってるか分かってるのか」
 紫苑が苦しそうに、奥歯を食いしばるように言うさまにかっとなって、右手の拳を思いきり頬に当てた。襟首を掴んだままなので、吹っ飛ぶより衝撃は重くなるはずだ。悔しかった、でも本当はよく分かっていた。イヌカシにまで言われた、守るものができたら負けなんだ、死ぬ確率が上がるだけ。でもそれを図々しくも守られるばかりの当人に言われたくなどなかった。人間はいつも、誰だって、とても勝手で、我侭だ。ズボンのポケットから折りたたみ式のナイフを取り出して、これみよがしにぱちんと音を立て刃を出した。
「今すぐ本当のお別れを言ってやろうか、かんたんだぜ」
 襟首を掴む手首を、紫苑が強く握った。睨み返す視線は、焦点を合わせられないのかふらふら揺れ、くちびるの端から一筋血が流れ出した。頭の中が白くなっていく。紫苑の手は、思いのほか熱い。
「殴り、たいなら、殴れば。刺せるって、いうなら、刺せよ」
 ようやく焦点を合わせて、紫苑はネズミを見据えた。眼球の光沢は失われていない。紫苑は、ネズミが右手で持っているナイフを、ネズミの手ごと熱い手で握った。そのまま、ネズミの怒りを鎮めるように、ナイフの腹を指でなぞった。
「ぼくは、くやしい。きみを好きだとかなんとか、言ったのに。ぜんぜん、すこしも、悲しくなかった」
 地下室の外から時を告げる鶏の声が場違いに聞こえて、泣き笑いのような顔になって紫苑は、それでも涙をこぼすことはせずに、続けた。
「平気で、きみを捨てられたんだ。くやしいよ、なんで」
 ――きみのそばにいたいと、思っていたはずなのに。悲しいほど冷静だった。じぶんの命を捨てる決意しか持たなかった、それだけで十分だと思った。ぼくが天然で人間らしいなんて、それこそが嘘だ。
「ごめん」
 搾り出すように紫苑はつぶやき、ナイフを持った右手も、襟首を掴んだままの左手も、ネズミの内からわきあがる怒りごとぜんぶ包むように、抱きすくめた。筋肉のほとんどついていない華奢な紫苑のからだが、少し震えていた。
 ネズミはもはや怒ることもままならず、かといってそのからだを受け止めてやることもできずに呆然として、ただナイフを取り落とした。刃の薄い安物のナイフは、切っ先より柄のほうが重い。先に床についた柄が、そこを重心にからからと乾いた音を立てて回転した。刃がストーブの灯を反射して光った。ネズミは視線の端でそれを捉え、爆竹の火花のようだと思った。
 紫苑の腕に力がこもる。頭は肩の後ろにのせられていたので、どんな顔をしているのか分からない。くちびるから流れ出した血は今どちらのシャツを汚してるんだろう、そんなことを考えながら、ネズミは数歩よろめいた。どんな言葉をかけてやればいい、紫苑にも、そして自分にも。
「……お別れじゃないキスを」
 出し抜けに、そう言った。紫苑の顔を見たくて、そう言った。言ってしまってから、もどかしくなった。真実は、人の数だけある。誰かにとっての真実は、他の誰かにとっての嘘だ。偽らざる心からの言葉を、紫苑に届けられるはずもなかった。それは紫苑に届いた瞬間に、嘘になる。

  *

 紫苑はそっと腕をのばし、上体をネズミから離すと真正面からネズミの灰色の、ふたつの瞳を見て、それから目を閉じた。噛み付くようにくちびるをふさぐ。懸命に、息がつげなくなるほど、文字通り奪うようにくちびるをあわせた。
 助けを求めているはずの沙布の顔が浮かんで、すぐ消えた。床に落ちたナイフに足をすべらせ、くずれるように折り重なって倒れた。そのとき脚のどこかを切ったようだけれど、痛みは少しも感じなかった。積み上げた本が何冊も崩れ落ち、大きな音を立てた。それもほとんど聞こえなくなる。ネズミはまったく抵抗しない。床に手をついた紫苑の頬を挟むようにして、ネズミが腕を伸ばしてくる。その手のひらが乾いて冷えていて、やけに心地よかった。
 ようやく顔をあげると、ネズミのくちびるは紫苑の血にまみれてあかく染まっていて、それが荒い息の合間に横に引き伸ばされたのではじめてネズミが笑ったんだと分かった。いたずらに嫌味を言って紫苑をからかうときの見慣れた顔だ。捕食者の顔。紫苑の血を吸い、笑う。
「時間もないんだ、好きにしろよ」
 かすれた低い声で言うと、ネズミは紫苑の頬にそえていた片手をおろし、紫苑の着ているシャツのボタンをひとつ、はずした。
「どうして、きみはいつも、こんなふうに」
「いいから黙って」
 さよならを言ったのにネズミが追ってきた、そのときよりはるかに衝動的な悲しさと悔しさで今ごろ涙があふれたが、それを無視してネズミのくちびるを濡らす自分の血を舐めとって、そのまま首筋に舌を這わせた。ネズミの白い首がわななく。またどこかで本の山が崩れた。小ネズミたちはどこにいるのだろう。こんな浅ましい姿を見せたくはない。ぼくらはこんなふうに、欲望のままからだをあわせるために出逢ったわけじゃないのに。どこで間違った、どこまで戻ればいい。後悔してないなんて、かんたんに言えることじゃなかった。少なくとも、まだ言っちゃいけなかった。一途で真摯な劣情、こんなものぶつけ合って、苦しいばかりだ。もう逃げられない、もう二度と逃げられない。
 ああそういうことか、ネズミ。
 紫苑はあらわになったネズミの肩の古傷に、誓うように何度もくちづけした。殴られた頬が今さらずきずき痛んだ。心臓がこれ以上ないほど血液を循環させるからだろうと思った。どうにかなってしまう、痛くて苦しい、溺れてしまう。

  *

 ネズミは紫苑の誓うようなそぶりを、少しも信じたくないと思いながら、ためらわず脚を開く。紫苑は苦しそうに眉根を寄せ、それでもからだを割り込ませてきた。眩暈がするほど揺さぶられる。埃のたまった汚らしい床が、背に何度も荒く当たった。それがやけに生々しかった。紫苑は今にも壊れそうな、それでいてしたたかな目をしている。視線を合わせてはこない。たまらず名前を呼んだ。「紫苑」と。捨てないで、気づかせないでと。生きる場所も死ぬ場所も違うなんてこと、とっくに分かっている。だから追わせないで。
 紫苑の首を囲む蛇状の紅斑に沿って、指を巻きつける。親指を軽く曲げて頚動脈のくぼみにあてた。その指に、力をこめることはできなかった。

  *

 殴られた頬がひりひりする、とたぶんお互いに思っている。部屋の中まで、朝日は届かない。これから一面に霜がおりて真っ白に輝くだろう世界を頭上に、いつまでも夜のままのような薄暗い地下で、まだ荒い息をつきながら体を離した。悔しまぎれに、どちらともなく笑ってみせた。きっといつも通りの一日が始まる。ネズミが先に立って浴室に消えた。紫苑は肩をふるわせて少し泣いた。ネズミのナイフが、本の中に埋もれるように、ひっそりとただ、落ちていた。[了]-2006/07/25初出