「冬日によせて」サンプル小説 アクアラング

 手のひらにのせた小さなかけらを観察する。薄紅色、といえばいいのだろうか。それは淡い色をしている。小指の先ほどの大きさで表面は滑らかではなく、たとえるなら木炭のような手触りだ。とても軽くて、強く握れば粉々になりそうな気がする。そのくせ光をあてるとため息が出るほどうつくしい色味を帯びる。一見した限りでは宝石のようにも見えたが、それは紫苑がこれまでに見たことのあるどの宝石とも違っていた。
 発端はイヌカシに頼まれた仕事だった。
 イヌカシがねぐらにしている廃ホテルには、給水設備がない。もちろん電気もガスも通っていない。聖都市育ちの紫苑からすると、それじゃあとても生活できない、と言いたくなるような状況だが、当のイヌカシは平然と構えている。ホテルのすぐ近くには水をたたえた泉があり、地下倉庫には大量にストックされた蝋燭があり、暖をとるためには犬たちがいる、それだけあればほとんど困ることなんてない、と常々イヌカシは主張する。
 ただ、この廃ホテルを宿として利用する客たちの中には、水道が使えないと困る、などと贅沢を言い出す者もいるという。それも、近ごろではそんな贅沢者が少なくないらしい。
「昨今の西ブロックはどうなってるのかねえ」
 とイヌカシは面白くなさそうに言った。イヌカシとしては、贅沢な、つまり裕福な客が減るのは望ましくない。貧乏人をただ同然で泊めるより金持ちを泊めたほうが、当然まとまった実入りを期待できるからだ。
 そこまで聞いて紫苑は、「きみ、人によって宿賃を変えてるの? ぼったくりじゃないか」と茶々を入れてみたが、イヌカシはまったく取り合わず話を続けた。
「だからさ、水道がないと嫌だっていう金持ちが、水道がないっていう理由でうちに泊まってくれないのは困るわけ。あれ? ごちゃごちゃになってきた」
 そう言いながらイヌカシが頭をぼりぼり掻き始めたので、紫苑は慌ててうんうん、分かるよ、と頷いた。
「つまり、水道があれば問題ないわけだね」
「そういうことになるかな」
「じゃあ、先行投資でもしてみるとか」
 紫苑が言うと、イヌカシは首をかしげた。
「せんこう投資? なんだそりゃ、辛気臭い話か」
「いや、線香じゃなくて、ええとね」
 落ちていた棒切れを拾って、地面にがりがりと文字を書いてみせた。先行投資、と。イヌカシは納得したようにふんふんうなっていたが、ややあってから「とにかく金を出せってことか、ばかなこと言うな、おれはごめんだぜ」と叫んだ。紫苑はため息を飲み込みながら、
「後から取り返せる利益を見込んで先にいくらかお金を出してみることを、先行投資っていうんだよ」
 噛んで含めるように言い聞かせた。イヌカシはふぅん、と口を尖らせた。
「イヌカシが今多少のお金を払って、水道管やなんかの工事をして、ネズミがやってるみたいに業者から水を買えば、水道が使えるようになるだろ。それにかかった元手のぶんだけ、贅沢な客からぶんどってやればいいじゃないか」
 イヌカシは再び、ふぅん、ともうぅん、ともつかない声を発し、眉を寄せて考え込んだ。紫苑が足もとに寄ってきた大型犬の耳を掻いてやりながら根気強く待っていると、やがてイヌカシは、紫苑にこう命じた。
「水道を使えるようにするとしたら、おれの部屋に近いとこがいい。だから調理場がよさそうなんだけど、紫苑、そこで今日のおまえさんの仕事だ」
 そういうわけで紫苑は、調理場の掃除を仰せつかったのだった。
調理場はホテルの南側にある。直射日光が差し込んでくるせいで、冬だというのにむしむししていた。
 そしてそればかりでなく、とにかくひどい散らかりようだった。埃はおよそ十数センチ、と言っても遜色ないほどどっさり積もっているし、壊れた調理器具、いびつに折れ曲がったカトラリーが床じゅうに散乱している。もしかしてホテルの廃業時にでも発狂したコックが暴れまわったんじゃないだろうか、思わずそんな想像をした。
 肝心の水まわりはといえば、蛇口など錆び付いたあげく欠けていて、シンクには得体の知れない虫がいる。ここを掃除する、という労働は、一体銀貨何枚分に相当するのだろう。働くことは嫌いではなかったが、それでもこの先の苦労を思いやると、ため息をつかずにはいられなかった。紫苑はせめてもの慰めに、給金をもらったら何に使おうかと考えながら、口をへの字に引き結んで作業を開始した。
 およそ一時間おきにイヌカシがやって来て、様子をうかがっていた。
 どうもイヌカシは、足のたくさん生えた虫が苦手らしい。最初は紫苑がからかい半分に指差した方向、つまりシンクの底を見るや血相を変えて逃げて行ったのだが、それでも天敵である虫たちの行方は気になって仕方ない様子で、紫苑がというよりは、くだんの虫がどうなったのかを確認しにやってくる。
 紫苑は紫苑で閉口しながら、まずは南向きの窓を力いっぱい開けて風を入れ、ハンカチでマスクを作ってついでに帽子もかぶり、勇ましくはたきを握ってそこいらじゅうの埃をやっつけにかかった。が、これがなかなか思うように進まない。床に散乱した調理器具のせいで、すこぶる足場が悪いのだ。
 何度目かに顔を覗かせたイヌカシは、紫苑が鍋やら薬缶やらにつまずくのを見て吹き出し、「埃より先にそのうっとうしいゴミを片付けたほうがよさそうだな」と助言した。加えて「まだ使えそうなやつは別の日に洗って売りに行こう」とつぶやいたところを見ると、その仕事も紫苑に押し付けるつもりだろう。観念してしばらくは、調理場専属になるしかなさそうだ。
 それなら、と床の片づけを優先させ始めたところで、片隅にそれを見つけたのだった。レースのランチョンマットの下にひっそりと隠れていた、光る小さなかけら。
 あんまりきれいだったので、ネズミにも見せたいと思ってポケットに忍ばせた。ポケットの中でかけらはかさかさと揺れた。紫苑は首をかしげる。これでは動いた拍子に壊れてしまわないだろうか。心配になって、緩衝材になるものを探した。しばし悩んだのち、マスクにしていたハンカチでかけらを包んでみることにした。ポケットの中でかけらは安定したが、防護布を失った口もとには容赦なく埃が吹き寄せてくる。背に腹は代えられない、というのはこういうことかもしれない。考え考え、埃を吸い込んではむせながら、紫苑は掃除を再開した。
 その日の夕方、紫苑が掘り出した茶器を使って、イヌカシは紅茶を淹れてくれた。特別だぞ、特別で絶対内緒だぞ、とことさら強く、イヌカシは念を押した。今は手持ちの金が少なく、作業量に見合うだけの給金をすぐには支払えない、その分の埋め合わせだという。紫苑はその申し出を快く受け入れた。
 ずいぶんと薄めに淹れられたシナモンティー。それでも湯気からはほのかにシナモンの香りがしていて、なんだかほっとする。
 湯は、泉から汲んできた水と、調理場から出てきたごみを燃やすために起こした火で、ついでに沸かした。火を起こすのには当の紫苑もかり出された。イヌカシ秘蔵のクラッカーはどうやら秘蔵のままで、お茶請けには四角いブラウンシュガーひとつ添えられただけだったが、あたたかい飲み物とおしゃべりで一日の労働をねぎらわれるのは、簡単だけど実はとてもすてきなことなんだ、と紫苑は思った。埃を吸っていがらっぽくなってしまった喉を、紅茶がまろやかに潤していく。紫苑はにこにこして、
「明日も手伝うよ」
 と力強く請け合った。イヌカシはにやにやして、
「おまえさんはほんと天然で助かるよ」
 と言った。
 ネズミの部屋へ帰る頃にはすっかり日が暮れていた。ドアを開けるとすでにネズミが部屋にいて、ストーブの傍らに立ってスープ鍋をかきまぜていた。紫苑がマフラーと帽子を壁のフックにかけるあいだに、ネズミは杓子で味をみている。
 いつものスープの味を思い浮かべた。野菜を刻むのも調味料の計量もものすごく大雑把なくせに、ネズミの作るスープは意外と繊細な味がする。紅茶でもスープでも、少なからず作った人の人柄が表れるもんなんだな、と紫苑は思い、だとするとネズミは大雑把なようでいて繊細なのか、それはまた分かりにくいな、と口の中でつぶやきながらいそいそと食卓についた。買ってきたパンをパンかごに入れるのも忘れない。
 食事がすんでしばらくしてから、紫苑はようやくポケットの中のかけらを思い出した。思わず「ああ」だか「うう」だか声を出したので、テーブルに座って分厚いシェイクスピア全集に目を通していたネズミがのろのろとふり向いた。
「なに、紫苑。夕食ならさっき食ったろ」
「わかってるよそんなの」
 ネズミがにやりと笑ったので紫苑はからかわれたのだと気づくが、今はそれどころではない。紫苑は手のひらに薄紅色のかけらをのせて、ネズミの目の前に突き出した。
「これをね、見せようと思ってたんだ。忘れてた」
 ネズミは紫苑の手のひらを見て、それから紫苑を見上げて、不思議そうな顔をした。上目遣いがはっとするほど美しく見えて紫苑は一瞬息をのんだが、かまわず昼間の話をした。話の途中でネズミは、
「ここらの水道業者は暴利屋だからな。多分あんたの苦労は無駄になるぜ」
 と不穏なコメントを挟んだ。紫苑は多少落胆しつつそうなることも予想の範囲内ではあったので、それならそれで仕方ない、と言って話を続けた。
「それで、この光るかけらを見つけたんだ。きれいだろ」
「確かにきれいな珊瑚だ」
「珊瑚? これ珊瑚なのか? あの、海の」
「海以外に珊瑚が生息してるなら、そこのでもいいけど」
「すごい、そうだったのか」
 ネズミの嫌味もなんのその、紫苑は再びまじまじとかけらを見つけた。
「調理場で働いてた誰かのブローチかなんかだったんじゃないか、それの破片だろう。廃業するときに誰かが暴れたっての、案外当たってるかもしれないな」
 ネズミの解釈は、ほとんど紫苑の耳に入ってこない。紫苑はひたすらかけらを見つめている。珊瑚、薄紅色の。宝石に似ていると思ったのは、それでか。
「ねえ、ネズミ。きみはどうしてこれが珊瑚だって分かった? ほんものを見たことがあるのか」
「珊瑚を? それとも海を?」
「どっちも」
 ネズミは目顔で紫苑に座れと促し、紫苑がベッドに腰かけると、いつもよりもっと艶やかな笑みをうかべて、ああおそらくは、舞台に立つときの顔をして、話し始めた。
 海を見たのは、まだずいぶん小さかった頃だよ。あんたに会うよりそれはもうずっと小さかった頃さ。おれは今となっては顔も覚えていない誰か、たぶん当時一緒に暮らしてた大人に連れられて、海辺の町へ行った。なんのために、とか聞くなよ。ほんとにぜんぜん覚えてないんだ。
 気づいたらおれは砂浜にいて、そこから海を見た。砂浜は白々と左右に広がっていた。海はどこまでも海だった。澄んだ青色だったよ、青色なんて今おれが言っても、あんたにはその百分の一も伝わらないくらい青くて、吹く風は湿ってた。なんとなく生くさい、魚みたいなにおいがしたな。それを磯の香りとか言うらしいが、でも不快なにおいじゃなかった。人間は海から生まれた、母なる海、なんて言うじゃないか、あれが事実で、おれが人間の女の腹から生まれたんじゃなくてこの海から生まれたんならどんなに素晴らしいだろうって、笑うなよ、そのときそう思ったんだ。いやおれは笑えるくらい小さかったけど、確かにそう思ったのさ。
 その町には立ち寄っただけで、心ゆくまで海を眺めるなんてことはできなかったけど、あれは一種の喪失だったね。海をいったん知ると、海から離れるのはもう永遠に無理なんじゃないかって思うくらい、海の影響力はとてつもない。もちろんすべての人間にってわけじゃないだろうが、少なくともおれにとってはそうだった。一目見ただけで、海はもうおれの感性の中に根付いてた。
 だから来たときと同じように大人に連れられて町を出るとき、おれは必死で足を踏ん張ってみたり、なんどもふり返ったり、今にして思えばめんどくさいガキだったろうな、でもおれは真剣に、喪失の痛みに逆らおうとしてた。海を見たばっかりに、海を喪失する、なんて理不尽な、ってね。おいおい、信じるなって。小さかったおれがそこまで考えたわけないだろう、忘れたのか、今のおれは役者だよ。
 そうそう、帰る間際に、波がひときわ大きく揺れた。それで、その波しぶきが立ってるところから、朝顔の双葉みたいなかたちの、黒っぽいものがのぞいたんだ。あとから聞いたら、あれはクジラだって言われた。おれは海洋学者じゃないから、それがなにクジラかなんていまだに分からないけど、すごいな、クジラを見たんだ、って小さいながらに感動した。うん、珊瑚は見てないがクジラは見たんだ。メルヴィルとかヘミングウェイの世界さ。ああヘミングウェイはかじきまぐろだったかな。なに? 珊瑚はどうして分かったかって? あんたも野暮だな、珊瑚はアクセサリーによく使われる、おれが知らないわけないだろ。
 それはいいからクジラの話を聞けって。海について知りたいんじゃなかったのか? 海も知らない都会育ちのおぼっちゃん。
 おれはそれから、クジラに興味を持った。単純な話だよ、海の影響力の片鱗というか象徴として、クジラを認識しちまったのさ。そうか、あんた生態学専攻だっけ、クジラの生態にも詳しい?
 じゃあ鳴音を知ってるよな。やつら一部の海洋生物が、仲間同士で意思疎通するときに使う、あれだよ。
 紫苑は目を輝かせて、
「超音波だよね」
 と応じた。ネズミはふと笑みをひそめ、ああ、と頷いた。
「なんだ、さすがによく知ってるな」
「ぼくもクジラは好きなんだ。鳴音といえば、マッコウクジラが有名だ」
「イルカだって有名だろ」
 話を遮ったせいでネズミの機嫌を損ねたかと思ったが、どうもそうではないらしく、ネズミはなにか考え込んでいるように見えた。それから一度、口を開きかけて閉じ、立ち上がってストーブに手をかざしながら、ふっと息をついた。口もとがかすかにまた笑っている。
「紫苑、人間の可聴周波数は」
「二十ヘルツからその千倍くらいまで。海洋生物の鳴音はそれよりずっと高い。だからかれらの声は、人間には聞こえない」
 ネズミがふり向く。頬にストーブの光が当たっていて、柔らかに赤く染まっている。
「あんたも鳴いてるんじゃないか」
 少しうつむき、流れるような視線を紫苑に向けて、ネズミは言った。
「だってあんたは黙ってるように見えても、思考がだだ漏れだから。それってやつらと同じ、超音波だったりして」
 あんたはポーカーフェイスってもんを知らないからな、と、どこからそういう話になるのか、なかなかに突飛なことを言われたので、紫苑は面食らって目を丸くした。
「今もさ、おれの話が飛んだから困ったって言ってるだろ」
「これは超音波じゃないし、きみはただぼくの表情を読んだだけじゃないか」
「まったく陛下ときたら、夢がなさすぎる」
 ネズミはこちらに向き直って、芝居がかった調子でくちびるを少し開いた。それから短く口笛を吹く。
「聞こえた?」
「もう、聞こえるわけ……」
 反論しようとして紫苑は、ふと思いつく。じぶんに鳴音が聞こえて、それでじぶんが鳴音を発してるとして、だ。それでぼくがクジラの仲間だったとして。
 それで。そうすると。
「じゃあきみにも聞こえるってことにならないか。ぼくの、その、鳴音が読めるってことは」
「は?」
 きみだって、仲間だよ。
 紫苑はテーブルのうえに置かれた珊瑚のかけらを指で弾いた。ストーブの光を受けてそれは、昼間見たときよりずっと清楚に輝いて見えた。
「ぼくもきみも、クジラも仲間だったんだ」
 ふんと鼻を鳴らして、ネズミは大げさに両手をあげた。
「頭がかたいかと思えば、かんたんに現実を突破する。あんたってほんと」
 なにか言おうとしたようだが、途中からそれはため息に変わった。でも確かに、紫苑には聞こえる。あんたって、天然で単純でおぼっちゃんで、そして先が読めない、きっとそんなところ。
 ぼくらは波間にただよっていて、それで他の人には聞こえない声で話してるんだ。ぼくは海を見たことがないけど、きみを通して、きみの海に触れることができる。小さかったきみの見た、あまりに大きくて、あまりに魅力的できみを虜にした、青い青い海。
 ぼくらは束の間そこにいる。
 珊瑚のかけらを目の高さに持ち上げて、紫苑は片目をつぶった。ネズミは笑い出し、笑いながら「ばかばかしい」と言って応じるように目を眇めた。
「それ、明日市場に持ってって、紐でも通してもらえよ。立派な首飾りになるぜ。イヌカシが悔しがる」
 しかし紫苑は首を横に振った。
「いいや、これはただのかけらのままのほうが、きれいだと思う」
 紫苑の答えに、ネズミは腑に落ちない表情でそれでもやはり笑いながら、曖昧に頷いた。
 音波で人が殺せるなんて、笑う一方でネズミがそんなことを考えていただなんて思いもしなかった。底なしの夜がゆっくりゆっくり更けていく。[了] -2006/09/30初出